「野村貴仁」と聞くと、世代によって印象がガラリと変わってくると思います。現役を知っている人であれば速球が武器の投手でいいピッチャーだったと思うかもしれません。しかし現役を知らない人であれば、
「ああ、あの清原が捕まった時になんか言ってたおっさん?」と言うところでしょうか。
そんな野村貴仁について紹介したいと思います。
○手のつけられないピッチャーだった
野村貴仁はいろいろな意味で手のつけられないピッチャーでした。
1990年に三菱重工三原野球部での活躍が目に止まりオリックスからドラフト3位で指名され入団。1995年には37試合に登板し、防御率0.98というとんでもない成績を残しました。
しかしその年のオフに年俸に対してもめ、(オリックスの提示金額3900万円は低いと思った野村は6500万円を主張した)パリーグで初の参稼報酬調停を申請。結局3900万円が妥当ということで野村の主張は通りませんでした。
それでも腐ることなく1996年にリーグ優勝、日本一に貢献します。
しかも日本シリーズでは4試合に登板し、その登板した試合は全て勝利するなど、まさに広島ファンから言わせてみれば「神ってる」活躍だったと言っても過言ではないでしょう。
97年は好不調の波が激しく、その年のオフに木田との交換トレードで巨人に入団します。
○ 社会人野球からメジャーリーグを経験した男
巨人時代は防御率こそ良かったものの、登板機会はあまりありませんでした。
2001年にはメジャーリーグに挑戦し、ブルワーズに入団するも結果を残せずマイナーリーグに降格。その後は一度も上がることなく2002年のオフに解雇されました。
プロ野球、メジャーリーグ、マイナーリーグを経験した野村貴仁は、その後日ハム、台湾の野球チームと歩き渡るも、輝きを放つことはありませんでした。
特に台湾でのチーム、誠泰では1試合にしかも登板しておらず、そこで彼の野球選手としての人生は終わりました。
2010年から野球教室を始めましたが、現在は誰も生徒がいないという状況であることが報道されました(恐らく今後余程のことがない限り生徒が来るということはないでしょう)。
○清原が捕まった時にメディアに映る
「野村貴仁と言ったら?」と聞かれ、プロ野球ファン以外、もしくは若い世代の人間だったらどっかで名前を聞いたことがあるようなという感じではないでしょうか。それは清原が麻薬所持で捕まった際に報道された人物だからです。
その際テレビに映っていて、「自分もやってた」と言っていたことからかなり信憑性が持てる感じはしました。本人もまだ薬をやっているんじゃないか?というくらいラリっていていきなり記者を歩かせて投球のできるところに連れて行きボールを投げ始めてしまいました(しかもキャッチャーがとれないような投球をしていました)。
裁判にでもなろうもんなら証言台に立つと豪語していましたが、呼ばれてもまともなことを言えないんじゃないかというのが私の感想でした。とはいえ今後もメディアがこの件で野村貴仁を取り上げることはあるのではないかと思います。